第一番 聖天宮 法輪寺

沿革


 
 御本尊 十一面観音菩薩 真言歓喜宗

 第一番霊場法輪寺はJR阪和線の和歌山駅から徒歩七分ばかりの町なかにあり、こんもりとした森が目印になる。

 法輪寺は弘法大師の開創と伝えられ開創以来八白年間は有田郡石垣組(現吉備町垣倉)にあった寺で島屋城主畠山氏累代の祈願所として、寺領数百石の寄進を受け七堂伽藍が整っていたが、天正年間兵火の為の大伽藍什宝及び往古の旧記等悉く灰燼に帰した。後、享保年間中興開山本明比丘が御室総法務頼遍大僧より授かった秘仏歓喜天尊を捧持して当吉田の里が伽藍相応の地として此処に当寺を移されてより、歓喜天尊の霊徳日夜に発揚し本明比丘の薫化四方に普及し終に国主第六代徳川宗直卿の深い尊信を受けるに至る。爾来当山は和歌山伏虎城の艮の方位に当たるとて永く鬼門除けの守護の霊場と定められ代々の国主が信仰せられ数々の霊顕を受けられた。


 弘化年間第十一代斎順卿は嗣子なきを憂い男子生誕を歓喜天尊に懸願し遂に菊千代君(後の家茂公)が降誕せられた。此君十三歳の時、江戸徳川家に入り第十四代征夷大将軍となり位内大臣に進まれ霊顕の顕著且つ霊徳鴻大と云ふべきである。

 爾来有徳の住職相嗣ぎ四方の信者朝夕に参詣し香煙の絶える事のない有様であったが、昭和二年七月九日太平洋戦の戦火を蒙り境内の建造物殆ど焼失した。

 終戦後焼野原になった当寺へ河内天野山金剛寺晋山して檀家一軒もないこの寺を今日の姿にまで復興されたのが現住職俊乗和上である。現在ではその昔の様に日夜多くの参詣人の絶える事のない霊場となった。

 また俊乗和上、河内天野山金剛寺在住以来の、知己の中には知名の文人墨客、芸能界の人との親交の幅広い深いことでは当地随一で金剛閣の襖絵四十枚及ぶ扁額「紀の国八景」は海南市雑賀紀光画伯が奉納されているがこれも俊乗和上の徳のしからしむるところであろうか、一度は訪ねて鑑賞させて頂く丈でも値打ちがある。