第三番 幡川山 薬師院 禅林寺

沿革


 
 御本尊 薬師如来 高野山真言宗

 一般に「幡川のお薬師さん(おやくっさん)」と呼ばれ親しまれる禅林寺は、正式な寺号を幡川山薬師院禅林寺と称する海南市内でも有数の古刹である。
 
 海南市幡川の地に所在し、藤白山脈とそれから派生する低山地との間の薬師谷と呼ばれる谷あいに位置する寺院であり、現在は高野山真言宗に属する。

開創
 
 禅林寺の開創は寺伝によると天平時代であり、聖武天皇の勅願により唐(中国)の僧である為光上人が開いたとされる。禅林寺の開創を記す最古の文書である弘安元年(一二七八年)八月八日の僧宗鑁の置文には、「・・・・・・当寺者、聖武天皇の勅願、為光上人建立之伽藍也、本尊者七薬師随一、効験奇特霊像也、・・・・・・」とあり、天平時代の開創であるという伝承が鎌倉時代から寺伝として語り継がれていたことを物語っている。また、御本尊御開帳に伴う事業の一環として行った寺宝類の調査の際、秘仏であるご本尊の薬師如来像が日本で数少ない天平時代の塑像であることが確認され、禅林寺の天平時代開創を少なからず裏付ける事となった。

中世
 
 開創当時の禅林寺の様相は不明であるが、中世寺院としての禅林寺については現存する「禅林寺文書」から判明する。
 
 中世における禅林寺は、「禅林寺」という寺号以外に、「幡川寺」もしくは「畑河寺」、「幡河寺」とも呼ばれていた。南北朝時代には禅林寺の所在する三上庄大野郷の地に紀伊国守護所が置かれ、南面する藤白の峰に大野城が築かれていたことから、その祈祷所として山名・大内・畠山等の歴代守護の加護を受けていた。

 当時の伽藍の規模は『紀伊続風土記』(天保十年(一八三九年))所載の建武元年(一三三四年)の沙弥覚心の書状によると、仏聖八所(金堂、宝蔵、地蔵堂、経蔵、阿弥陀堂、鐘楼、文殊楼、温室)に、御社(熊野、吉野、白山)、僧房十二口(宝蔵院、中之坊(無量寿院)・知足院・蓮花院、南之坊、地蔵院、宝土院、阿弥陀院、梅之坊、福智院、積蔵院、観音院)、承仕三口があったとされる。また、永享十年(一四三八年)の「禅林寺田畠目録並所務帳」によると、当時は寺領として六町六反(内、敷地二町三反)を有しており、三上庄大野郷内で最大の寺院であったことが窺える。
 中世の大野郷において一番の興隆を有していた禅林寺であったが、天正十三年(一五八五年)豊臣秀吉の南征の際の兵火に遭い、堂宇や多くの寺宝領は悉く焼亡した。さらに、寺領も没収という憂き目に遭い、以前の規模の堂宇の再建は不可能となった。

近世以降

 この禅林寺を中興したのは中之坊の秀慶法印である。秀慶法印は兵火により一宇も残さず堂宇が焼亡したのを憂いて、慶長二年(一五九七年)に日向国佐土原庄の仏師士賢に命じて土造の薬師如来像を造立し、その後、仏師高慶に命じて御頭のみ残っていた塑造の身体部分を補佐せしめ、御本尊として安置に至る。

 兵火の後に再建された堂宇は本堂(天保三年(一八三二年)再建)。鐘楼堂(宝暦四年(一七五四年)再建)。護摩堂・倉裡となり、幾度かの修理を得て平成の世を迎える。
 
 今回、平成七年の御本尊薬師如来の御開帳を機に、本堂・鐘楼堂の改修、本尊収蔵庫の新築、講堂の改築という平成の大改修を終え、現在に至る。

 兵火による堂宇の焼亡にもかかわらず、寺宝領の一部は火災を免れ現在に伝えられている。その内、中世の文書類については「禅林寺文書」として県文化財に指定されている。