沿革
御本尊 阿弥陀如来 西山浄土宗
JR紀勢線の特急くろしお号で田辺駅におり、タクシーを走らせる。芳養駅から徒歩三分の距離にあるが、停車回数が少ないので、遠方からの参詣にはこの方が便利である。会津川を渡り田辺港のの眺望が開けたと思ったらすぐに着いてしまう。六分ほどの間である。
境内に入ると、境内いっぱいに広がった柏槇の大木がある。樹齢数百を経たものと思われる。庭園木によく使われるイブキの一種であるから、これほどの老木は誠に珍しい。天然記念物に指定されたそうだが、剪定の度に届けを出したりするのが煩わしく寺の方で辞退されたとの事である。
当山の歴史はそんなに古くはない。永禄三年(一五六〇)今川義元が桶狭間で惨敗した時、その家臣松井左内は自ら世の無常を感じ、戦衣を脱ぎ捨て、京都西山栗生の里念仏三昧院(現在西山浄土宗総本山光明寺)に入り、剃髪、出家、名を侶空受言超阿と改め、浄土教を学び、念仏三昧を日課として暮した。
しかし上人は、家臣の霊をなぐさめると共に、各地で絶えまなく続く戦乱の世を防ぎ、仏法の教えを人々にひろめるために一宇を建立したいと発願、元亀二年(一五七一)紀州南部郷に錫を留め、この地に念仏信仰をひろめた。そして十年一日、千秋の思いで待ち望んだ一宇を建立、その名を超世寺と名付け、以後、泉養寺、超願寺、当山善徳寺と四ヶ寺をわずか十数年で建立、さらに上人は寂静の地を求め、念仏の教えを多くの人々にと、南へ山路を下ったが、その途中、竜神山附近に差しかかった際、誤って何者かに殺害されたと言い伝えられている、時は天正十三年三月二十九日、上人無き後、この地を今も「善徳寺岩」と名仏け、毎年三月二十九日には上人の御徳を偲び、四ヶ寺檀信徒が相集い、大法要が厳修されている。